2004年
  12月
 12月21(火)女たちの平和資料館チャリティ イベント
                                          江戸東京博物館
2年前に亡くなった松井やよりさんの最後の仕事が「女たちの平和資料館」を建設することでした。松井さんの死後、募金活動が行われていますが、まだ建設地も決まっていません。早く平和資料館ができるといいですね。私も賛同金をお送りしました。
辛淑玉さんと高里鈴代さんのトーク。那覇市長選で敗れたものの元気一杯の高里さんに、辛さんは「強いものとするのが喧嘩で、弱いものとするのはイジメ。だから喧嘩にはなかなか勝てないけれど、負けても諦めてはダメ。粘り強く何度でも戦わなくては」と、エールを送りました。
いつもの痛快な語り口で、時には会場の笑いをとる辛さん。でも、イラクで殺された香田さんについては、「香田さんが処刑される映像を繰り返し見た。私たちは、自分たちが香田さんを殺した事実を見るべき。香田さんの死は、小泉が死刑を決め、テロリストが執行したもの」と、厳しい口調で話しました。
寿のライブもありました。寿の歌を聴くのは、新宿の韓国料理のお店「ぱらんせ」で行われたライブ以来です。
韓国の農民たちの音楽も。演奏しているのは在日韓国人や日本人たち
最後は参加者全体で踊りました。辛さんの後ろ横の男性は、松井やよりさんのご兄弟とのこと。
会場の入り口には、松井さんの死後、1周年の時に作られたキルトが飾られていました。
キルトの真ん中には優しい松井さんの写真が縫いこまれています。
 12月18日(土) 藤谷弘さんを偲ぶ会
                                  後楽園会館              
 いつも、いつも私や「村越まり子と市民の会」を支えて下さっていた藤谷弘さんが10月30日に亡くなりました。ご遺体を献体にされ、葬儀等も一切行わないとのことでしたが、弘さんの元の職場の方が中心となり、偲ぶ会が開かれ、「村越まり子と市民の会」の仲間とともに出席しました。 私が議員として活動することができたのも弘さん、そしておつれあいの操さんがいらしたからこそで、どんな感謝の言葉をもっても言いつくせません。
 02年の夏、喉頭がんの大手術をされ、一事はとても危険な状況でした。でも、弘さんの頑張りと操さんやご家族の励ましで、翌年のお正月には自宅に戻られるまでに回復されました。その後は、自宅で好きなお酒を飲んだり、図書館に行ったりと弘さんらしい毎日を過ごされていました。 03年4月の私の2度めの選挙の時には、出発式や当選の日に激励やお祝いに大塚の事務所までいらしてくださいました。そんなとき、機械をつけて話される弘さんの話しぶりが、以前とちっとも変っていないことにスタッフの皆がなんだか嬉しく感じていました。
 もっともっと弘さんから教えていただいたり、アドバイスをしていただきたいと思っていましたので、
こんなに早いお別れはとても、とても残念です。これからは何か問題にぶつかった時、「弘さんならどうされます」と、心の中の弘さんにご相談していきたいと思っています。
かわいらしく、元気のいいトラの絵が。弘さん寅年だったかしらと思ったら、なんと大酒飲みの「トラ」とのこと。
藤谷さんのお宅の留守電のメッセージは今でも弘さんの声です。「モノ対策会議」で発言する弘さんの映像が流れましたが、手術直前と言うことで、声が少しかすれており、時折、咳き込まれていました。
娘さんの忍さんと仲間の方の歌や演奏が。私は「すみれ」と言う曲が心に残りました。
弘さんへの一言の前に、キャンドルに点火。
私と弘さんとのお付き合いは最近のことと言うこともあり、順番は後の方と思っていたところ、一番初めに指名されてビックリしてしまい、弘さんの思い出だけしかお話できませんでした。
スタッフ会議、忘年会、そして「やまびこ荘」や「ごうら荘」への旅行などで弘さんとご一緒した私の会の仲間たち。
15年間で20数回の海外旅行のほとんど一緒にいらした、とても仲が良かったお二人。操さんにとって弘さんとの早い別れは私たちが想像する以上に辛いものがあると思います。でも、弘さんが病に倒れたとき、気丈に支えていた操さんですから、これからの人生もきっと強く、元気に、明るく歩んでいかれるのではないでしょうか。
 12月12日(日) 丸山町町会、林町町会50周年記念
                       荒馬座公演
      林町小学校体育館
体育館の中に芝居小屋のような舞台ができました。
  荒馬座の公演の前に子どもたちによる太鼓が披露されました。練習の成果が十分に発揮でき、元気な演奏でした。